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■生前に徳川家長期政権の基盤を作った家康
戦国時代の三英傑の1人、そして260年以上続く江戸幕府を開き、その礎を築いた人物である徳川家康。
彼は1616年4月17日に駿府城において75歳で亡くなりました。当時としてはかなりの長寿です。
死因は胃がんではなかったかと推察されています。
生前、家康は、自分が築いた統治基盤を守るためにさまざまな相続対策を施しました。
2代目将軍・秀忠の跡目争いの際には、秀忠寵愛の三男・忠長ではなく、嫡男・家光とするよう「長幼の序」を明確にしました。
この制度は徳川将軍家をはじめ、日本中の大名家、武家に引き継がれ、江戸時代を通じ昭和の戦前まで相続制度の基本となりました。
実力や能力よりも家柄と生まれの順で人生が決まってしまう。
現代の常識から考えると理不尽な感もありますが、乱世が終わり、平和な時代を迎えたこの時期には適した制度だったのかもしれません。
さらに、家康は直系の子孫が断絶した場合を想定して、徳川家の親族である尾張藩、紀州藩、水戸藩を徳川御三家とし、直系が途絶えたときにはその藩から跡継ぎを出す体制を構築しました。
こうした徳川の血筋を続ける施策があって長期政権が実現したわけです。
■自らの死後の扱いについての家康の遺言
そんなしっかり者の家康は、自分が亡き後の彼自身の扱いについても以下のような遺言を残しています。
※勧請とは、神仏の分霊を迎えて祀ること
こうして遺体は、駿府にある久能山(久能山東照宮)に葬られ、葬儀は徳川家の菩提寺である江戸の増上寺にて行われ、位牌は家康の故郷の三河にある大樹寺にて納められました。
■家康の参謀・天海による遺言の実現
さて、問題は4.の「日光山の小堂」です。
関ヶ原の戦いがあった1600年頃から家康の参謀として活躍していた天台宗の僧・天海は、家康の死後にどのような神として祀られるべきかについて臨済宗の僧・金地院崇伝、神道家・神龍院梵舜との間で「権現」か「明神」かのどちらにするかで争うことになりました。
結局、徳川家に敵対した豊臣家の秀吉が死後「豊国大明神」として祀られていたため、明神は不吉だとして崇伝と梵舜が主張した「明神」案は退けられ、天海が主張する「権現」に決定。「東照大権現」となることが決まりました。
そして天海の指揮により家康が「日光へと改葬された」という記録が幕府の文献に残っています。それが現在徳川家康が神として祀られている日光東照宮なのです。
■家康の遺言は守られていない?
家康の遺言では「久能山に葬り」「日光山に小さいお堂」を建てて分霊を祀れと言っていたはず。天海は家康の遺言を知っておきながら、それを無視して遺体を日光山に「改葬」して移転した上「豪華絢爛な建物」にしてしまったではありませんか。
日光東照宮は国宝に指定された豪華な陽明門など非常に華やかな建築物があることで知られています。
これでは家康の遺言は天海によって半分無視されたようなもの。
しかし、近年、日光に運ばれた「神柩」の中には遺体は入っていなかったとされる説が有力視されはじめ、久能山東照宮の神廟こそやはり徳川家康の意向通りホンモノの墓所である可能性が高いとも言われています。
ただ、質素倹約に励んでいた家康にしてみれば、現在の日光東照宮の華やかさは彼が希望した「小さなお堂」からは随分かけ離れているようです。
とはいえ、今でも日光東照宮は多くの参拝客で賑わう人気の観光名所として大成功を収めている場所。
家康も結果オーライと許してくれているのかもしれません。
2021年4月
司法書士 日永田一憲
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代表者
司法書士・行政書士
日永田一憲(ひえだかずのり)
昭和44年生れ
鎌倉市在住
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